2008-08-12

ウサギとカメ、と本間さん

懐かしいお二人、遠方より来たる。
本間さんご夫婦、である。

10数年ぶりの再会は、
昼下がりの15:30、JR松山駅にて。

“おぅ、元気そうやん!(ニコッ)”、と、本間さん。
笑うとなくなるくらい目が細くなるのは、昔のまんま。

“めっちゃ、立派になられはってぇ!”
と、持ち上げ上手な奥様も、当時のまんま。

“いやぁ、ぜーんぜん、変わってへんですね~!
お二人とも、めちゃ若っ!”

と、私も、つい、そのまんま、反応してしまった。
だって、本当なんですから。

そんなお二人を。

どうぞどうぞ、と私の車に乗せて、早速、市内をプチ観光。
そして、私が住んでいるマンションへご案内した。

“こんにちわぁ!”、と、お出迎えする家内と子供たち。
ただ、4歳の娘だけ、完全に、よそよそしい。

へぇ、人見知りするんだ、
と、わが娘の性格を、今ごろ認識する私も私、ではある。

ひとしきり、昔話に花が咲き。

洗濯ものをたたみながら、天然ボケの会話をする家内は、
本間さんには結構ウケたみたいで、

“奥さん、オモロイなぁ~。”
なぁ~、の部分に、妙に実感がこもっているのであった。

“いや、オマエ、えー嫁さんもろたわ!”

いえいえ、えー嫁さんは、
お客様の前では、下着とか、たたみませんから。

それから、場所を移動し、
食事をしながらの、第2ラウンド。

思い出のジグソーパズルともいうべき、
お互い忘れかけていたピースをつなげながら、

現在のピースを継ぎ足しながら、そして、
それぞれの未来のイメージを膨らませていった。

と、美しそうな話だが、
終始、ベタな会話ではあった。

あの頃の私は、極貧。
食生活は、ほぼ毎日、納豆と花かつお、だったが、

2日と空けず、3軒隣りの本間さん宅に行くたび、
いつも温かい手料理をごちそうになった。

食の恩とは、深いのである。

また、本間さんとコンビで、物理的にも精神的にも、
プライベートの殆どを費やした、地域の青年部活動では。

そのネットワークが広がれば広がるほど、深まれば深まるほど、
複雑多岐にわたり生じる私の悩みを、

いつもそのまま打ち明けることができ、
その都度、受け止めてくれたのが、本間さんご夫婦であった。

“エーねん、エーねん、木村。
それより、おまえ、知ってるか、ウサギとカメの話?”

なんで、ここで、ウサギとカメ?なのか、

そういう煙の巻き方、というか、
奇想天外の、心理モードの切替力は、彼の18番であった。

“ウサギは何故、あの競争、負けたか。
それは、カメを見ながら走ったからやで。

カメは何故、あの競争、勝ったか。
簡単やん、ゴールだけ見すえて、歩き続けたからや。

なぁ、木村。
目の前のウサギは関係あらへんねん、無視しとったらえーねん、

オマエはオマエのゴールだけ見とったら、えーねん。
大事なんは、そこやで。

今、しんどーても、そこ、忘れんかったら、人生、勝てんねん。”

当時、私は24歳。
本間さんは30歳だったか。

実のところ、
自分のゴールがどの方向にあるのかさえ、よくわからなかった。

けれど、そんなウサギとカメの話や、
勝手に私が名づけているだけだが、

バットの素振り理論や、
タイヤの幅理論、また、

ニワトリが先か卵が先か、よりも、使命が先やで理論、

細工は隆々、あとは仕上げをごろうじろう理論、
などなど、

枚挙にいとまもないくらいの本間ワールドに、私は、
決定的に、インスパイアされたのである。

大阪にいたのは、たった4年弱だったけれど。

その、本間さんご夫婦との4年がなければ、
私は今も、ゴールを探していたような気がする。

おかげさまで、本間さんの3軒隣りの大阪で、
私は私の、進むべきゴールを確信させて頂いた。

この先、所がどこであれ、仕事が何であれ、
環境がどうであれ、こういうふうに生きていこう、

と、決意したその瞬間を、今も忘れない。

その意味で、
本間さんご夫婦は、私の恩人、なのである。

約6時間の、束の間の再会ではあったが、
そのことを確認するには十分、だったろう。

21:30、JR松山駅にてお見送り。

その時も、
笑顔の本間さんの目は、やっぱり細かった。

お二人には、いつまでも、これからも。

宜しくお願いします、
と、心から思うのであった。


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