2010-08-31

足あと

午前、党務。

午後、理事者より9月補正予算説明を受ける。

終了後、県庁内をハシゴして部局折衝。
夕方は、相談事案のご報告で相談者宅を訪問。

ご要望に添えないことへのお詫びと、
事情のご説明や次善策にご理解を求めながらも、

別のアプローチはないか、他に方法はないか、
との自問自答がずっと、続いた。

労いを励ましに明日以降も考え続けたい、と思う。


2010-08-30

足あと

午前、党務。

午後、昨日の宿題対応をはじめ、
県庁内部局折衝の後、企業訪問等に動く。

夜は、党務。


2010-08-29

足あと

午前、知人のお見舞いをはじめ、
県民相談にて、松山市内を巡回。

午後、新たな県民相談を申し受け、

青野伊予市議に同行頂き、
伊予市内の現地を、視察。

調査なくして発言なし、というのは、
生活現場主義・公明党の、生命線。

やはり、
本当のことはそこへ行かないとわからない、

と、あらためて痛感。

明日の宿題を、持ちかえる。


2010-08-26

足あと

午前は事務所にて、午後は議会にて政務。

昼下がりの16:00、
県議会林業活性化議連の視察で、下難波へ。

県産木材にこだわった、在来軸組立法による
大規模木造建築物・サテライト型特別養護老人ホーム
「あやめ荘」の上棟式を見学させて頂く。

県産木材の需要拡大、という観点だけでなく、

後継者不足は、技術伝承の断絶の危機と表裏、
ということなど、

建築業界が抱える深刻な課題を学ばせて頂く。

技術伝承の断絶は、業界関係者はもちろん、
結果的に多くの県民の皆様にとって不利益、となる。

そうならないよう、
微力ながら研鑽を深めてまいりたい、と思う。


2010-08-25

足あと

この日も、終日、県民相談。

松山市内、県庁、松山市役所などを巡回。

午後、
お世話になっている方のお見舞いに伺う。

全快を、一途にご祈念してまいりたい。


2010-08-24

足あと

午前、県民相談の朗報をお届けする。

先日、ひとすじの涙、と綴った当事者のご要望が、
ご要望の通りに改善される運びとなったのである。

その方は少しお耳が遠いため、
顔を近づけて大きな声でご報告したところ、

満面の笑顔が、顔中に、広がった。

議員としてこの瞬間に勝る喜びは、ない。

国も地方も厳しい財政状況には違いないが、

それゆえに、
事業の優先順位を間違えては、ならない。

増税の前にやるべきことがある、

という当たり前の努力をもっと示さねば、
政治不信も政治家不信も、払拭できない、

ということを、あらためて、

その方の満面の笑顔から教えて頂くと共に、
心から感謝が込み上げた。

午後は、別の県民相談で、
国交省松山河川国道事務所を訪問。

夕方は、雲峰松山市議とともに、
松山市内を家庭訪問に回らせて頂く。

終日の動きは、すべて、
県民の皆様から頂いたご相談が出発点。

それは。

有難うございます、のひと言に尽きる1日。


2010-08-23

ひきこもり支援強化に、全力

午前、
加戸知事はじめ理事者幹部に予算要望を、提出。

加戸知事におかれては、
最後の知事査定になるであろう今回の要望、だ。

わが会派として、

盛り込むべき事項に漏れがないように、
後任知事に確実に引き継いで頂けるように、


誠意と熱意をもって、お訴えさせて頂く。

提出後、議会基本条例検討会に遅ればせ、参加。
正直、非常に重たい雰囲気に、戸惑う。

この重たさがどこから来るのか、
ということの検討が先に必要、と感じてならない。

午後、ひきこもり家族会の
「KHJ愛媛こまどりの会」の代表各位と、

山本ひろし参院議員・笹岡議員と共に、
保健福祉部を、訪問。

山本ひろし参院議員から、国が昨年度から実施している
「ひきこもり地域支援センター」事業について、

既に設置している高知県、徳島県の事例を引きながら、
本県におけるセンターの早期設置と、

ひきこもり支援のさらなる強化について要望が述べられ、
続いて、

KHJ愛媛こまどりの会を代表して渡辺会長から、
当事者家族としての、切実で具体的なお訴えがなされた。

その皆様の思いを受け止めながら、

当選後の初質問をはじめ、
4回にわたり本会議質問を重ねてきた私としては、

自身の力不足に対して忸怩たる思い、痛恨の極み、
という他なく、大変申し訳ない気持ちで一杯となる。

仙波部長からは、
ひきこもり支援の重要性に関する認識と見識が述べられ、

センター設置がカタチだけに終わらないよう、
これまでの取組みを一度総点検した上で
総合的な支援強化を行いたい、との意向が明確に示された。

ここからは私の出番、だ。

ご家族に笑顔を取り戻すその日まで絶対にあきらめない、
との、初質問の決意のままに。

ひきこもり支援に、今後とも、
全力で取り組んでまいりたい、と思う。


2010-08-22

足あと

終日、事務所にて予算要望の作成。

提出は明日午前のため、
ジリジリと焦りながらも何とかまとまり、安堵。


2010-08-21

公明党四国夏季研修会

香川県宇多津町にて開催された
公明党四国夏季研修会に、出席。

総勢140名以上が一堂に会し、定刻を迎える。

谷あい参院議員、4県代表の挨拶に続いて、

山本ひろし参院議員講師による
「障がい者施策の最近の動向と今後」について、


石田のりとし衆院議員講師による
「今後の農業政策・過疎地域の課題」について、

それぞれ研修を受ける。

引き続き、午後からは、
党幹部として駆けつけられた井上幹事長から、

国政状況の見通しと党政策スタンス等について、
また、たっぷりの質疑応答などでお話を頂く。

同じ四国で、似たような政治課題を有する私たち
地元議員にとって、極めて実り多いひと時であった。

来年の統一選を目指し、実質上のキックオフ。
研修を活かし、しっかりと取り組んでまいりたい。

末尾ながら、ご準備を頂きました各県スタッフの
皆様に、心より感謝申し上げます。


2010-08-20

足あと

午前、公明党・谷あい正明参院議員が、来松。

終日、地元市議の皆様と共に、
企業・行政・関係団体等を中心に、同行訪問。

世の中、
ということも含めて大変勉強となった1日。


2010-08-19

足あと

終日、事務所にて県民相談対応。

夜、若手議員の情報交換会。
有意義なひと時に感謝、である。


2010-08-18

足あと

終日、事務所を中心に政務。

ネットワーク政党ゆえに、
多方面との連携に暇なし、の感。

ひとえに、有難く思う。


2010-08-17

足あと

午前は議会にて、
県下の雇用状況について、詳細をヒアリング。

午後は事務所にて、政務。


2010-08-16

足あと

午前、病院。
午後、県民相談にて県庁、市内、砥部町を巡回。

ご相談に対して素早い対応をお喜び頂くのは、
職員の素早い対応に感謝、ということと同義。

職員各位にあらためて感謝しながら、

“チーム愛媛”として、
県民の皆様のために共々に働きたい、と思う。


2010-08-15

65年目の、平和の誓い

午前、ひめぎんホールにて開催された
愛媛県戦没者追悼式に、出席。

あれから65年目の夏、である。

ひとくちに65年前といっても、その年には、
団塊の世代の方々は、まだ生まれていない。

それくらいの時間が経過している、のだ。



弔辞を読まれる戦没者ご遺族の方も、

式典にご参集の皆様も、齢を重ねられた。

献花の際、会場内の光景を見渡しながら、

戦没者の皆様のおかげで私たちの今日があること、
に対する感謝の気持ちとともに、

戦争という悲惨な事実を絶対風化させてはならない、
との決意が、心の底から込み上げてきた。

この気持ちは、自分も年を重ねたためか、
年々益々、強く、深いものとなっている。

式典終了後、平和希求と不戦の決意のままに、

山本ひろし参院議員、小林・藤本松山市議と共に、
街頭遊説で、平和の党・公明党についてお訴えする。

猛暑の中であったが、支援者の皆様をはじめ、
県外から帰省されたと思われる方々が、

立ち止り、お手を振り、熱心に耳を傾けてくださった。
感謝に堪えない、のひと言、だ。

国民の皆様に、多くの庶民の皆様に、

あの、いつか来た道を絶対に歩ませないように、
政治が、間違えてもそちらに行かないように、

毎年この日を、特別な日として迎えられる皆様の思いを胸に、

公明党として、1人の議員として、全力を尽くしたいと思う。


2010-08-14

足あと

終日、事務所にて政務。
久々の、デスクワーク。

お昼前。
大変お世話になっている方のお見舞いに伺う。

手術後まだしばらくとあって、
短時間であったが状況をお聞きする。

全快を確信し、
しっかりご祈念してまいりたい、と思う。


2010-08-13

足あと

先月の参院選で、大阪選挙区から初当選された
公明党・石川ひろたか参議院議員が、来松。

石川議員は、ご両親とも愛媛出身とのことで、
お盆をかね、親戚をはじめ本県関係者へのご挨拶、

ということで、午前中、同行させて頂いた。

車中、短時間ではあったが、さまざまお話を伺った。

一言で言うと、めっちゃ爽やか、めちゃ優秀、
というのが、率直な私の感想である。

国政で、思う存分大暴れ、して頂きたいし、

谷あい参院議員も含めて、若い力で国政の変革を、
と心から期待し祝福を送りたい、と思う。

正午、山本ひろし参院議員秘書とともに、

在日本大韓民国民団愛媛県地方本部主催による
第65周年光復節記念式典・懇親会に、出席。

有難くも初めてお招きを頂いたが、
ご挨拶の機会を賜り、一言お祝いを申し上げる。

今後とも、両国の懸け橋としての皆様と
親交を深めてまいりたい、と思う。

終了後は、県民相談にて砥部町へ。
それにしても、暑い、暑い。

相談者から畑で頂いたみかんは、思いのほか熱く、
まるでホットみかん、のようで、
お互い笑うしかない、ほど暑い毎日、である。

夜は、大学同級生の懇親会。

少し前と思ったら4年ぶり、というから、
あっという間、には呉々も気をつけたい、と思う。


2010-08-12

足あと

午前、議会にて政務。
午後、宇和島市での告別式に出席。

松山帰着後、県民相談対応で市内巡回。


2010-08-11

足あと

午前、県民相談にて砥部町を訪問。

午後、松山市役所にて担当理事者と、折衝。
その後、県庁内の部局巡り。

それにしても閑散とした、議会周辺。
お盆が近いから、だろうか。


2010-08-10

公明党杉並区議団②

昨日に引き続いて、公明党杉並区議団の
愛媛県がん対策推進条例調査、2日目。

午前、ご多忙のところを、
NPO法人愛媛がんサポートおれんじの会から、
松本理事長、小野副理事長にご出席を頂き、

同会の発足経緯や主な活動紹介をはじめ、

がん患者ご家族から見た同条例の意義や、
今後の要望等について縷々お話を頂いた。

私自身、

何度伺っても、決意を塗り固められるような、
おれんじの会のお二人のお訴えは、

間違いなく、杉並区のがん患者ご家族の皆様に、
追い風となって成就していく、と確信するし、

その決意は、
区議団各位もまた同じ、であったに違いない。

正午前、有意義な条例調査も無事終了し、
ご多忙のご足労を謝しつつ、散会となった。

午後、県民相談にて松山市内を巡回。

それぞれにお喜びの笑顔を、
自身の喜びとして心に焼きつけたい、と思う。


2010-08-09

公明党杉並区議団①

午前、県民相談にて松山市内を視察。

当事者のひとすじの涙が、心に深く刺さる。
最大の善処をお約束し、対応に動く。

午後、公明党杉並区議団ご一行が来庁。

目的は、
本県がん対策推進条例に関する調査、である。

笹岡代表とともに熱烈歓迎した後、
早速、理事者各位のご協力を頂き、

同条例策定の経緯やその意義等についてレクチャ、
及び質疑対応を頂いた。

その光景は、2月議会の特別委員会を彷彿させ、
私も、思わずパネルを手に熱弁、を述べさせて頂く。

わが町の安心を何としても向上させたい、
との、杉並区議団各位の真剣と熱意に、

こちらの方こそ学ばせて頂いたひと時、
であったし、

先月の内子町を皮切りとした、
県下すべての市町に対する私たちがん議連の啓蒙活動も、
着実に加速させていかねば、と痛感するひと時となった。

末尾ながら、ご協力を頂きました理事者各位に
心より感謝を申し上げます。


2010-08-08

足あと

午前、党愛媛県本部幹事会。

午後、同議員総会兼臨時県本部大会。

勇退された豊田前松山市議の後任として、
席上、党県本部幹事長の大任を拝命する。

身の引き締まる思い、で一言、
ご挨拶を述べさせて頂いた。

議員の第一歩を踏み出した時の初心と、
寸分変わらぬ初心と決意をもって、

党勢拡大という職務遂行に、
微力を捧げ抜いてまいりたい、と思う。

終了後、県民相談にて松山市内を巡回。


2010-08-07

足あと

時差のため、空白の1日?

正確に言うとサンフランシスコを出発するまでが8/6、

成田空港に到着してからが8/7のブログ、となります。


2010-08-06

南加愛媛県人会創立100周年記念訪問⑦

AM8:20、ホテルを出発した一行は、
サンフランシスコ国際空港へ向かった。

いよいよ、帰国である。

正午過ぎに同空港を離陸し、一路、成田空港へ。

所要時間は約11時間ということだったが、
一睡もできないまま、1時間ほど早く成田に到着。


体内時計では8/6の22:00頃、なのに、
日本時間では8/7の13:00頃、なので、

その違和感たるや、久々の徹夜明け、のようであった。

その後、昼食をとり、羽田にて飛行機を乗換え、
夕方、無事、松山に帰着。

訪米中にも様々なご相談のお電話を頂き、
明日からさっそく公務に全力を挙げてまいりたいし、

今回の公的訪問で得たかけがえのない知見を宝とし、
県政に反映できるよう尽力してまいりたい、と思う。

末尾ながら、

事前準備から全行程の遂行にご尽力頂いた職員各位と、
県下すべての関係各位に心より感謝を申し上げます。

長期間にわたり大変に有難うございました。


2010-08-05

南加愛媛県人会創立100周年記念訪問⑥

午前中、
日本人街をはじめサンフランシスコ市内を、視察。

同市観光の目玉でもある世界最古のケーブルカーは、
どこか坊っちゃん列車にも似て、

早朝にも関わらず長蛇の列は切れるどころか増え続け、
その人気の高さが十分にうかがいしれたし、

乗車料金は1人5ドルだから、この街の観光収入としては
おそらくかなりの比重を占めているに違いないだろうし、

その後に移動したフィッシャーマンズワーフにしても、
小高いツインピークスにしても、

(坂の街、サンフランシスコ)

あるいは昨日のゴールデンゲートブリッジにしても、
どこも観光客にあふれていたのは決して偶然ではなく、

歴史的にも同市の観光政策が、その経営戦略の根幹に、
しっかりと組み込まれている証左に他ならない、と感じた。

夕方、市内のレストランにて、
今回の公的・民間訪問団合同での解団式が開催された。

6日間を振り返りながら、やはり長いようで短く感じられたが、
言い当てるとするなら、濃い、というのが、私の心象である。

日本もこの先、

一定のコスモポリタン化が進むことを想定した上での
国の理念および制度設計が求められるであろうし、

世界経済におけるプレゼンスを考えると、

経済成長戦略はどのようなポジションをめざすものか、
その人材育成にどう取り組むのかが問われる、だろう。

あるいは、わが愛媛においても、

アメリカの州政府のような独自のダイナミズムの発揮や、
サステイナブルな地域経営戦略の実効性が、

好むと好まざるとに関わらず内外の競争を伴って、
シビアに要請される時代に入った、と思えてならない。

そう肌で実感させられた私にとってこの6日間は、
非常に色濃く、有難く、貴重な機会であった。

その後、日本と愛媛の将来について、しんしんと、

夜もすがら熱く語り続けたこの日ばかりはおそらく、
訪問団各位もそれぞれ感慨一入であったに違いない。

帰国するまで気は抜けないが、解団式にあたり、
訪問団員各位に心より感謝を申し上げたい、と思う。


2010-08-04

南加愛媛県人会創立100周年記念訪問⑤

AM8:00、ホテルを出発。

バスに乗り込んだ私たちは、
北針記念碑のあるポイントアリーナ市を目指した。

途中、

ゴールデンゲートブリッジでの休憩をはさみ、
ひたすらバスに揺られること、約5時間。

ついに、北針記念碑に到着。

そこに見た風景は、切り立つ断崖を背にした入江、
であり、小さな漁港としての風情、であった。

想定内ではあったが、ハッキリと寒く、風も強い中、
記念碑の前で、

ポイントアリーナ市関係者による歓迎のセレモニーと、
引き続いて現地メディアの取材が行われた。

(セレモニー取材風景)

ここで、北針記念碑について触れてみたい。

その話は1913年、今から97年前にさかのぼる。

アメリカで一旗揚げることを夢見た八幡浜の若者15名が、

わずか15mほどの打瀬船(うたせぶね)と呼ばれる帆船で、
地元を出航し、



(打瀬船の手作り模型)

北針という磁石一つを頼りに太平洋横断を決行し、
58日かけて同年8月13日、遂に漂着したのが同地であり、

距離にして1万1000kmという、常に死と背中合わせの、
この無謀の船旅はしかし、雄飛、不撓不屈、進取といった、

八幡浜人としての誇りを厳然と伝える希望の伝説、
となった。


その先人たちに連なる末裔が、県人会の皆様であり、
今回の八幡浜訪問団の皆様方、なのだ。

その、現地に立った感動はいかばかりであろう、
と忖度しながら、行程は次へと進んでいく。

北針記念碑の近くにあるレストランにて開催された
ポイントアリーナ関係者との昼食懇談会では、

大城市長をはじめ八幡浜訪問団による各種セレモニー、
記念品贈呈等の後、和やかな懇談のひと時が持たれた。

引き続き場所を移しての記念植樹等を滞りなく終了し、
名残惜しくもポイントアリーナを後にすることとなる。

(記念植樹風景)

サンフランシスコに到着したのは、21:00を回っており、
久しぶりに空腹を覚えたのは、私だけではなかったろう。

この日の夕食は、日本人が経営する和食店であったのだが、

おひたしとか、漬物とか、の、ちょっとした一品に
感動を覚えたのは、これも私だけでなかったに違いない。

いよいよ明日は、最終日。

時差の関係で2日かけて帰国する計算になるが、
無事故で公的訪問の有終の美を飾りたい、と思う。


2010-08-03

南加愛媛県人会創立100周年記念訪問④

AM10:00、在ロサンゼルス日本国総領事館に、到着。

一昨日、記念式典に駆けつけてくださった
伊原純一総領事への御礼を兼ねた表敬訪問、だ。

会議室に通された私たちは約1時間にわたり、
伊原総領事ご本人から、

所管する南カリフォルニアの産業・経済や、
日系人社会の現状等についてお話を伺った。

まず、同地域の在留邦人数は約9万人で、
その内、7万人弱がロサンゼルスに集中しているとのこと。

その多くが、1,200社あるといわれる日系企業の関係者で、
現地で約12万人もの雇用を創出しているそうだ。

ロス経済圏における総貿易量は今では中国がNo1だが、
直接投資額では現在も日本が1位、だそうで、

同経済圏における日本の貢献インパクトは依然、極めて高い、
とのことで、昨日と異なり少し、勇気づけられる思いがした。

(伊原総領事を囲んでの記念撮影)

ちなみに、総領事館には、現在約50名が勤務しており、
その規模は小国の大使館以上、だそうである。

さて、同地域は、ロサンゼルス港、ロングビーチ港など
全米コンテナ取扱い量の1/3を占める運輸拠点となっており、

貿易や国際商取引が経済をけん引する構造だそうだが、
最近の課題は、低迷が長期化する失業率、だそうだ。

全米平均で9%の失業率がこちらでは12%という状況で、
それまで好調だった不動産業界が、
リーマンショック以来回復していないことが大きいそうで、

それ以来、連邦政府は、最長半年であった失業手当を、
特例として99カ月まで延長給付して対応しているそうだが、

一方では連邦政府の財政赤字が深刻を増し、
職員に給料が支払えず裁判訴訟が起きている状況もあるらしい。

わが国とも近いが、それでも異なるのは、
アメリカ人のダイナミズム、と伊原総領事は語られる。

特に、ヒスパニックとアジア系で人口の半数を超える、
移民国家といわれる同州にあって、この不景気の中、

それでも人口が増え続け、起業件数は伸び続けるという、
動きを止めない強さが、同地域の強みであり活力であり、

そこが日本との大きな違い、との総領事の指摘は、
わが国の喫緊の課題を射ているように、思えた。

つまり、教育、である。

世界と将来を見据えたわが国の人材育成のあり方について、

制度、のみならずコンセプトまで遡った確固たるビジョン、
というものの必要性を、

私自身の課題としても痛感させられる思いがした。
異国にて授かった大いなる宿題、だ。

その他にも種々のレクチャを頂き、和やかな中にも
深い見識の詰まった、正にあっという間の1時間、であった。

その後、総領事館を後にした私たちは、
バス車中にて昼食をとりつつ、ロサンゼルス空港へ、移動。

手続きを済ませてフライトすること約1時間、
次の目的地であるサンフランシスコに、到着。

空港を一歩出ると日差しが眩しいくらいであったが、

夜は一転、ジャンパーがないと困るほど寒くなる、
ということを、この後身を持って知ることになる、
私たちであった。

その夜の行事は、市内のレストランで開催された
サンフランシスコ在住県人会の皆様との交流会。

今回参加された県人各位は全員、八幡浜関係者、であり、
それほどサンフランシスコが所縁深いのには、

やはり理由があり、かつ歴史があるのであって。
その詳細については、明日のレポートに譲りたい。

加戸知事の開会あいさつ、
現地県人代表の菊池ヘンリーさんの歓迎あいさつ、

大城八幡浜市長による乾杯の後、さっそく懇談へと進み、
各テーブルそれぞれに会話の花が咲いていったが、

私が着いたテーブルは偶々、八幡浜訪問団であったため、
眼前にアルカトラズ島を臨む絶景のポイントビューにあって、

(アルカトラズ島)

何といっても今は亀ケ池温泉が大人気ぞな、とか、
山本ひろしさんにはお世話になっとるけん、とか、

南予はまず道を何とかしてもらわんと困らい、など、
数日ぶりの地元話が、久々の日本語会話で行われ、

あれれ、県人会との交流は?と心配になりかけた時、

大城市長を先頭に八幡浜市関係者による“てやてや音頭”が、
各テーブルを練り歩き披露され、会場はすっかり一体化して。

続いて、現地県人の矢野ジョージさんによる
県人会の沿革から現在に至るまで詳しいお話を伺い、

故郷との絆が、いかにかけがえのないものであったか、
今もなお重要であるか、感動と共に理解することができた。

そしてさらに交流が深まる中、会はお開きとなり、
会場の外にて全員の記念撮影を行い散会となるのだが、

外は、冬を感じさせるほどすっかり寒くなっており、
事前の情報収集の必要性を痛感することとなった。

(全員で記念撮影)

明日の目的地は、ポイントアリーナ市。

かなり北上するため、きちんと寒さ対策もして、
資料も再度読み込んで、準備万端、臨んでまいりたい。


2010-08-02

南加愛媛県人会創立100周年記念訪問③

AM9:15、リトル・トーキョーにて
県人会の川名様が経営されるヤマサ蒲鉾の工場を、視察。

今から30年前、1955年に先代が創業され、
現在は2世のフランクさんが社長を務められている。

社名の通り、蒲鉾が中心ではあるが、

こちらの工場では、天ぷら、ちくわ、海苔、乳酸菌飲料を、
また別の工場では、クッキー、麺、精肉などを製造加工し、


日・韓・台湾系人を主な対象顧客として販売されており、
ロスになくてはならない食品メーカとして活躍されている。

今日に至る試行錯誤とご苦労話を伺いながら、
また、試食させて頂きながら、

なぜ、こちらの蒲鉾が、

目に飛び込んでくるようなショッキングピンクで、
コシがなくねっとりとした食感なのか、理解した。

そうしないと売れないから、なのだ。

なるほど。

どこであっても、事業は常に顧客から始まるし、
顧客の支持を失うと事業は存在できない、のだ。

政治と有権者もまた同じことがいえるであろう。

いずれにせよ、あらためて。

アメリカ社会に確固たる地歩を築くために奮闘された
県人の皆様のご努力と歴史に、心から敬意を申し上げたい。

その後は、ロス市内を移動し、
午後はリトル・トーキョーの視察となる。

1900年代初頭、
数万人の日本人が移住し、小東京として栄えた同地だが、

第二次世界大戦の際、日系人が強制収容された後の一時期、
入れ替わるように、アフリカ系アメリカ人の街になったそうだ。

そして戦後、
再び日本人・日系人が戻り始め徐々に復活していったそうだが、

現在は、
既に3世・4世の時代に入り、その多くが郊外に居を構えており、
同地における日系人の人口は減少を続けている、という。

逆に増加が著しいのが、韓国系・中国系の人々で、
それは、看板や広告など街並みにもハッキリと見てとれた。

両国経済の勢いは、
日本の国内ばかりでなくアメリカ社会をも席巻しており、

リトル・トーキョーの風景は、疲弊する国内の地方にも似て、
日本経済の低迷という現実を映し出しているかのように、見えた。

国政は、政局をしている場合ではなく、

地方政治もまた、地域経済の成長戦略をしっかりと描き、
それ以上に、実行の速度を上げていかなければならない。

本県においては、
愛媛県経済成長戦略2010で着手を始めた事業の中から、

一刻も早く成功の芽出しができるよう、
私自身しっかりと取り組んでまいりたい、と思う。


2010-08-01

南加愛媛県人会創立100周年記念訪問②

ロス市内のホテルにて、AM11:00。

県人会・現地関係者約200名、訪問団約100名、
総勢約300名が会場を埋め尽くす壮観の中、

今回の最大の記念行事である、南加愛媛県人会
創立100周年記念式典が、盛大に挙行された。

日米両国国歌斉唱、先亡者への黙とうに続いて、
松岡県人会会長の開会の辞は、


故郷との絆、文武両道の精神、など

日本人としてのアイデンティティによって支えられた
100年という道のりに対する感謝と、

次世代の更なる交流発展を祈る万感にあふれていた。

加戸知事からは、

英訳するとラブリープリンセス、と言えなくもない、
当意即妙の本県紹介を交えた心温まる祝辞が述べられ、

在ロサンゼルス日本国総領事館の伊原純一総領事からは、

南カリフォルニア地域の経済産業の概括と、
日系コミュニティが占める地位等について触れた上で、

100年前、最初に井戸を掘った人を忘れてはいけない、
との最大の敬意と、心からの祝福が寄せられた。

続いて、県人会のこれまでの沿革紹介の後、
昼餐会、いわゆる懇談へと式典は進んでいったが、

同席の県人の皆様と会話しながらあらためて痛感したのは、
若い頃、英語をマスターしておけばよかった、との後悔。

昨今では、英語を社内公用語にする企業が増えているが、
グローバリズムの今後を想定すると、

複数の外国語が話せて当たり前、という時代の本格的な到来を、
ひしひしと肌で感じるひと時であった。

それにしても。

ロスでは今、龍馬伝が大人気で、ぜひ土佐に行ってみたい、
という方が多く、龍馬フリークの知識の豊富さに、驚いた。

国営放送が在外国日系邦人に与える影響の大きさ、即時性が
ここまでスゴイとは、と実感した。

さて、数々のプログラムをもとに滞りなく式典は進み、
最後に、出席者全員で「ふるさと」の合唱となった。

忘れがたきふるさとを想い、目頭を押さえながら、
涙をぬぐいながら歌われる県人会の皆様のお姿を、

目頭熱く、まぶたに焼きつけようと思った。

感動の余韻を残しながら、その後、私たちが向かったのは、
リトル・トーキョーにある全米日系人博物館、であった。

(全米日系人博物館)

ここで私たちは、県人会のみならず、日系移民の、
壮絶な歴史を目の当たりにすることに、なる。

同博物館は、
日系アメリカ人の歴史や文化を伝承・展示しており、

収蔵の品は、
彼らの工芸品・服飾・写真・芸術など、10万点以上。

初期の移民の多くは独身男性で、
家事手伝いや鉄道工夫や単純労働などから始まり、やがて、

写真によるお見合い結婚などで妻を日本から呼び寄せ、
次第に日本人移民家族が西海岸地域に増加していったという。

そうしてようやく安定しつつある軌道を“絶望”に変えたのが、
真珠湾攻撃によって始まる第二次世界大戦であった。

日系人は敵国人とみなされ、彼らは私有財産を没収され、
強制収容所へと送還され、不当な差別と生活を強いられるのである。

説明者の解説や、館内の映像、写真、生活道具などを通して、
当時の悲惨な収容所生活の様子が、痛切に、伝わってきた。

そういう状況にあっても、彼らは希望を失わず、

アメリカ史上もっとも多くの勲章を受けた部隊と言われる
有名な「第442連隊」を輩出させ、

戦後、
激しい偏見や社会の受入れ拒否という状況にあっても、

努力を惜しまず、ついには「模範的マイノリティ」として、
アメリカ社会から称賛される現在の地位を築かれた、のだ。

解説者のメリーさんは、この私たちが歩んだ歴史と事実を、
記憶していてほしい、と私たちに対して切実に訴えられた。

日本人と、ますます全世界に広がりゆく日系人との“絆”
について考えることは、

こうした不幸な歴史を繰り返さないために極めて重要、
ということを心に刻むとともに、戦争ばかりではなく、

自殺者が絶えない状況に象徴される今の日本にとって、
家族や地域における“絆”がいかに重要であるか、

今こそ見直し再構築することが急務、との確信を深める
貴重なひと時となった。

こうした出会いや機会に感謝しながら、
しっかりと自身の役割を果たしてまいりたい、と思う。